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七回忌

あれから6年経ちました。
土曜日のせいもあってか、一関から気仙沼に至る国道は車が連なっていたそうで、
うちに来ようとした友人は、横断ができなくて、しばし待ったそうです。
「帰りは遠回りでも、ちゃんと信号のある所を通る」と・・田舎感満載の発言をしていました。
最近のテレビは、ローカルでは特にですが震災関連のものが多く放送されていて
もうすぐ3月11日、今年は犠牲になった方々の七回忌だとの認識は有ったのですが
雑事に没頭していて、今日のその時刻には頭にありませんでした。
防災放送から突然サイレンが聞こえてきたので、最初は火事かと思い
次に、震災の時刻だったことを思いだして慌てて黙祷をしたのですが
目をつぶって手を合わせているうちに、涙がぼろぼろと出てきて止まらなくなりました。
最近は忘れていることのほうが多いですが、震災一か月後に見つかった友人が可哀想で
思い出しても胸が張り裂けそうになります。
陸前高田の火葬場に夕刻行ったのですが、火葬場は高台にあるので、避難所になっていました。
そこに避難されている方々の夕餉の匂いが漂っている中での、友人の火葬なのでした。
ランタンと蠟燭の灯りのもと、みそ汁の匂いがする中で友人が火葬されたことは切ないことでした。
そのあと、息子さんとご主人もご遺体で見つかったと聞きましたが、家族で助かった方は無く、
ご主人のお姉さんが、お墓を守っておられます。
友人はご主人とはいろいろあって、息子さんたちが独立したら親戚のいる遠い地に行くのが夢でした。
本気で言っているのか冗談で言っているのか、そこは本人のみぞ知るですが、
あの震災では、避難しようとして家族が一台の車に乗ったと聞いています。
最期は家族がみんな一緒だったことになります。
遠い地に行って一人で暮らす夢は叶いませんでしたが、家族一緒だったことが救いかなとも思います。
プロ並みに歌のうまかったA子さんと、また一緒にカラオケに行きたかったです。
右側がA子さんです。
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3.11の我が家です。
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by esiko1837 | 2017-03-11 21:06 | Comments(8)
Commented by iwamoto at 2017-03-12 08:43 x
今までの災害への対応方法では解決出来ない規模なんですね。
放射能もあるし、その質と規模において未曾有。

前々記事でしたか、台所の様子。
確かに見覚えのある流しと水栓ですね。
Commented by sustena at 2017-03-12 15:59
昨日はちょうど地元の仲間との公開放送の日で、3.11をテーマに話し合う予定だったのですが、あいにく石垣島への出張が入り、参加できませんでした。
まだまだ復興に向けて問題山積みなのに、なかったことのように忘れ去ろうとでもいうような国のトップの発言に呆れたりしてました。
Commented by esiko1837 at 2017-03-12 19:42
お兄さん、こんばんは。
仮設住宅から出られない方々が心配です。
段々歳を取ってきてるので、気力もなくなってくるし
経済力の問題もあり、出た人と出られない人の格差が問題になっています。
震災さえなかったら普通に暮らせていたのに・・との思いが募るのではないでしょうか。
気仙沼にも立派な復興住宅が何棟かできて、そこでの生活を始めた方々がいます。
でも人口が減っているので、この先どうなるのでしょうね。

台所の写真は、あの頃に載せたものです。
カメラ好きだと咄嗟にあちこち撮ってしまいますから、地震保険の申請の時に役立ってくれました。
それにしても乱雑な・・・現在は、換気扇交換でお掃除をした名残が、それなりにある・・・かなあ・・。
Commented by esiko1837 at 2017-03-12 19:53
サステナさん、こんばんは。
地元のお仲間との公開放送に参加できないで残念でしたね。
石垣島にお仕事で・・・ご苦労様でした。
羨ましくもあり・・・と、無責任に思ったり。

震災で被害に遭われた方で、前向きになれない方はたくさんおられるんですよね。
一昨日のニュースだったでしょうか・・・新潟で白骨化した推定70代の男性の遺体が発見されたそうで、ノートを破いた紙に、「陸前高田の者です。家族は全員亡くなり、生きる気力が無くなりました」と書いたものがテレビで映りました。
自分一人だけが生き残ったという気持ちが、この方を死に追いやったのかもしれません。
被災した方の心のケアを、まず第一にやってほしいと痛感しています。
国のトップは、もう過去の事という認識なのでしょうか。
Commented by giovannibandw at 2017-03-12 20:26
こんばんは。
ローソクの灯りで夕食に缶詰を食べ、電気を使わない石油ストーブが1台だけあったので暖を取ることができました。
情報源はラジオだけで、電話もネットも使えず、こちらの安否を伝えることもできなかったのを思い出しました。
電電公社時代からの昔の黒電話は家庭用電源を使わないので通じたそうです。
Commented by esiko1837 at 2017-03-13 19:30
Lucianさん、こんばんは。
ローソクの灯りで夕食をとり、石油ストーブで暖をとったこと、うちと同じです。
あと、練炭コンロと炭のコンロを買って来て、それも食事作りに使いました。
食料の備蓄がいっぱいあったので不安はありませんでしたが
後で知った放射能には不安が募りました。
電話ですが、家電は今のものですが、音は小さいですが何日か経ってから停電でも使うことが出来るようになりました。
災害時、携帯のソフトバンクはうちのあたりでは一番役に立たなかったようです。
Commented by いちご at 2017-03-15 15:18 x
こんにちは。
3月11日、2時46分黙祷しながら涙があふれてしばらくの間、数時間は動けませんでした。
あの日の映像を見て、当日の事が昨日の事のように思い出されて・・・
忘れもしないあの日、車の中で津波の映像を見て「これは夢だよね!悪い夢を見ているんだよね」って自分で自分に言い聞かせた事を覚えています。
あれから6年、一日も早く皆さんが安心して平穏な日々を送る事が出来ますように・・・と願う事しか出来ません。
平凡な毎日が、どんなに幸せな事かということ・・・改めて感じますね。
esikoさんご家族も大変な日々を過ごされたのですよね。
ご友人のお話、聞いていて本当に心が痛みます。
ご友人ご家族のご冥福をお祈りいたします。
Commented by esiko1837 at 2017-03-15 20:44
いちごさん、こんばんは。
いちごさんはあの日、車の中で映像を見られたのですね。
こちらのほうは停電がしばらく続いたので、状況が全くわからないまま時間が過ぎました。
現実が段々わかってくると、いちごさんの仰る通り、これは悪夢だ、悪夢であって欲しいと思いました。
でもそれは厳しい現実であって、夢ではありませんでした。
東松島の叔父の無事がわかったのは、一か月以上経ってからです。
避難所を何回か移って、そのあとで仮設住宅に入り、家の修理が終わって戻ったのは2年以上経ってからだと思います。
あれだけの大きな災害に遭うと、人の心も普通ではなくなるようで、家族間のすれ違いから、叔父はせっかく直した家を出て、今は埼玉のほうに住んでいます。
あれもこれも、震災さえなかったら・・と思えてなりません。

被災地から離れた土地では風化が進んでいると聞きますが、現実はまだまだ大変な状況です。
いちごさんのように、いつまでも心に留めておいてくださる方が有りがたいです。
二次被災とでも言ったらいいのでしょうか・・当時陸前高田が担当だった県職員の従弟も休みなしで働いていて重い病気になり、やっと病院に行ったら手遅れで亡くなっています。
運の良い人と悪い人はどこで決まるのでしょうね。
明日どうなるかは神のみぞ知るですが、とりあえず生き残っている我々は、亡くなった方々を忘れないでいたいです。

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